昭和42年02月08日 夜のご理解



 最近骨董品なんかの、値打ちについてから、いろいろ言われますことは、昔はもう古いものは、結局そのままこの、古いそのものが値打ちであった。ですから偽物なんかは、わざわざ古いようにこう、見せかけてですね、汚したりして、あのしたものですけれども。最近のいわゆる美術品、古美術なんかの、いわゆる骨董品の値打ちと言うのは、古い物であってそして、この新しい物でないと値打ちがないと言われるそうです。
 それが完全な形を持ったり、完全なその色をそのまま持っておったり、というようにですね。ですから昔のその汚れた物なんか垢やらを、きれいに丹念に落とすそうです。落としてきれいに新しくする。きれいにするんですね。昔ははぁその垢を落としたらいけんとか、垢が付いとるのが良いのであった。というようにそのお道の信心も、やはり他の宗教に比較すればまだ言うならば新しい宗教です。
 百年余りの宗教ですから、何千年という伝統をもった宗教から比較すると、まあそれこそ、いわば、新興宗教と言うてもいいかも知れないくらいです。しかし、金光教の信心は、まあ新興宗教とは申しませんよね。だいたい、この、戦後の宗教を、新興宗教だとこう言っておるですけれども。もう大きな意味で言うなら、やはり新興宗教ですよね。百年足らずの宗教ですから。
 ですからもうやはり百年も経ちますと、何とはなしに一つの垢というものが、その付いてるわけですよね。それを私どもの信心によって、愈々斬新なもの、新しいものにしていくというところにです、私どもは願いをおかなければいけないと思うんです。それは、新しくということは、例えば教学化していこうと言ったような、こともあるかもしれません。けれどもそんなものではない。
 教祖の御教えが、百年前のあのお言葉が、現代に生きておるといったようなものです。それにはですやはり私どもの信心が必要なんであって、それは研究とかただ勉強したというようなことで、頂けるもんじゃないと私は思うです。例えば青年会最近は次々とご造営の、現場での御用があっております。あの御用なんかでもです、私はあれを一つ本気で今日こそ、いつもが御用なんだけれども。
 自分の仕事でも御用なんだけれども、今日はもう直接、本当にです、言わば、あの現場で神様の直接の御用をさせて頂くのであるから、本当にその御用精神というものを持ってです。もう真心の限りを、思いの限りを、力の限りを、あのことに、私は、打ち込んでいくことだと思うです。そこから生まれてくるものなんです。私、それが、新しいもんだと思うんです。何事でも信心になれよと。
 例えこの言葉は古いかもしれません。「信心する者は、何事でも信心になれよ」と仰る。けれどもその、教祖の仰るそのお言葉をです、何事にもなかなかできません。けれども今日は、直接神様の御用をさせて頂くのあるから、ご造営現場の御用奉仕であるから。ところがその、何か自分のところでは一生懸命にやっても、現場ではまあしだごだまあ要領良うやっておるといったような、その向きがないでもないのです。
 これは私どもが長年御用させて頂いとって、それを感ずるですねぇ御用と言やもう普通のとこ、もしこれ勤めで言うならば8時なら8時には、ちゃっと出らにゃいかんです9時ごろこれがでたり10時ごろ出たり、何あるかに片付けてから行こうと言った様にそれではお手伝いのような気持ちである。ですから例え勤めんでも8時に出るのであるか、ほんなら7時半にくらいに行ってその心がというな心構えなんです言うならば。
 自分のことにも一生懸命なるなら、より以上に、神様の御用であるから自分のことでは出来ないような力を、そこに注がせて頂くと言った様な事なんです、何事にも信心になれよと仰る。ですからそういう例えばこれはその、だけのことではありませんけどもですよ。例えばほんならその、何事にも信心になれよと言った様なお言葉そのものはです、古い感じがするけれどもそれを実際の上に。
 行の上に表していくことによってですそこから生まれてくる新しいもの。ちょうど古美術品がですね、その古さとかその時代が時代の、一つの風格というものがです。そのまま新しくその新しい物に保存されておると。今作ったものではとてもその味わうことの出来ないようなです、ものがですやはりその古美術の中にあるように。ちょうど百年前に教祖の神様が、本当に誰でも使うような平凡な言葉をもって。
 教えておられるその言葉がです。生き生きとして現代に通う、そのものになってくるために、ここんところの私は、掘り出すとでも申しましょうかね。良いものをそっから掘り出していくような働き。それでその何事にも、信心になれよということを私は本当に、行の上に表してそこから私はその古い、言うなら言葉が新しい何か、今の私共の感覚というか、そういうものにぴったりした、何か新しい言葉がです、そっから生まれてくるような気が致します。
 だいたい、椛目のご理解はですね、教祖の言葉を教祖の御教えをですね、何かその現代にこうマッチするというかね、そういうようなものを、私の伝えさせてもらう御理解の中から感じることができます。それは私どもの表現ですから皆さんが聞いたら古いかもしれません。ですからそれは皆さんの信心によって、もっと新しい言葉で、例えばそれが表現できるというところにです、現代人にマッチした宗教としての、真価を発揮することが出来ると思うんです。
 これが、百年後、千年経ってもです、やはりそういうような、その命を保っていくところに、生きた宗教の値打ちがあると、こう思うんですね。どうぞ、皆さんが共励をなさるということもです、そういうところに一つ、焦点を置いて、まあ、教祖の信心を私が新しくするなら、私の信心を皆さんの信心によって、もっと、新しいものにして、おいでられる精進が、共励の焦点になると良いと思うですね。
   どうぞ。